「降り注ぐ恐怖」のよう。ガザのどこにも安全な場所などなかった

野口千歳 UNDPガザ地域事務所長

2021年6月10日

崩れた自宅の壁の穴を茫然と見つめる少年 ©UNDP / PAPP - Abed Zaqout

バルコニーに座り、美しい紺碧の海を眺めながらアラビックコーヒーを飲んでいると、まるで地中海沿岸の高級リゾート地にいるような気分になります。しかし、ここはガザ。ほんの数日前まで、ガザの人々がこれまで経験した中でも最悪の戦闘の真っ只中に私たちはいました。

私はイード(断食明けの祭り)休暇前の日曜日にガザに入り、友人たちとゆっくりと週末を過ごすことを計画していました。私が現在住む東エルサレムのアパートは、パレスチナ人世帯の立ち退きに反対するデモが行われていたシェイク・ジャラーの通りに面しています。暴動鎮圧用装備に身を包み馬に乗った警察官が若者たちを追いかけ、スタン・グレネード(音響閃光弾)の爆音、燃え盛るゴミ捨て場から立ち上る煙、そしてスカンクウォーター(異臭のする水)のひどい悪臭が日に日に物々しい雰囲気を醸し出すようになってきていました。私は、ガザの静かなアパートに帰ったほうがいいのではと思ったのです。しかし、これから何が起こるのか、私は知る由もありませんでした。

日曜の夜が最初で最後のイフタール(断食月中、日中の断食を終え日没後にとる食事)となりました。2021年5月10日(月)、ロケット弾とミサイルの応酬で治安レベルが高まり、移動が制限されました。火曜日になると、ロケット弾の発射数やミサイルの飛来数が「通常」のレベルをはるかに超えてエスカレートしていることは明白で、状況は急速に悪化していったのです。

上空を飛ぶF16戦闘機のごう音、海軍の艦船から聞こえてくる発射音、ガザの至る所で起こる爆発音が激しくなってきました。 私は、万が一に備えて爆風の逃げ場を確保するため、飛散防止フィルムで覆われた自宅の窓が開いているのを確認。さらに窓に直面しない唯一の場所であるキッチンにソファを移動させました。長く厳しい夜がやってこようとしていました。

夕方7時頃、アパートから1キロも離れていないところにある14階建ての住宅ビルがF16の攻撃対象になったと、同僚や友人から連絡がありました。そのビルの警備員がイスラエル当局から連絡を受け、皆が家を飛び出して避難していました。 近辺は混乱に陥っていました。

そして最初の攻撃「警告」が飛んできました。「バフッン」という強い爆風と共に、ビルが揺れました。皆、避けられない事態を待っているかのようです。永遠に続くかと思うような時間が過ぎた後、ミサイルを搭載したF16が、最後の一撃を加えるために我々に向かって直進する音が聞こえました。爆発の衝撃と強烈な揺れ、まるで隣のビルが破壊されたように感じました。

その瞬間、私はUNDPの事務所に移動することを決めました。

戦闘によって破壊・被害を受けたアパート© UNDP/PAPP - Mohammad Majdalawi

UNDP事務所内の地下シェルターが、その後10日間、私の住居となりました。また、期せずして、他の国連機関や国際NGOの国際スタッフや現地スタッフ、そしてその家族43人の住家となったのです。

水曜日の午後、国際スタッフの多くが中継地点のUNDP事務所に集まり、ガザを脱出するための人道的回廊が開くのを待っていました。

私も一緒に出たいかと聞かれました。ガザ地域事務所長として、そのような選択肢は思いつきもしませんでした。即座に「いいえ、同僚と共に残ります。ここが私のいるべき場所です」と返答しました。

しばらくたった後、車列を組んで進むには危険が多すぎ、ガザが閉鎖されたままであることが明確になりました。そこで、私は同僚たちと共に地下室にいき、その夜(もしくは2、3泊)滞在する人々のためにシェルターを設置しました。

エスカレーションが発生する、あるいはその恐れがあるたびに、私はチームと共に地下室に行き、水や缶詰、マットレスや枕、毛布、医療用品などがきちんとストックされているかどうかを確認します。また、地下の燃料タンク、3台の発電機、装甲車や非装甲車両に燃料を補給する必要があるかどうかも確認します。緊急時には UNDPに国連緊急調整センターも置かれるため、すべての通信バックアップ・システムが機能しているかどうかも再確認します。

2年前に着任して以来、同様の手順を何度となくこなしてきましたが、緊急シェルターを稼働させるのは2014年以来初めてのことでした。不幸なことではありますが、エスカレーション、戦闘、紛争を何度もくぐりぬけてきた経験から、自らの役割を把握している経験豊富なチームが共にいてくれたことが心強かったです。私は心より彼らのことを信頼し命を預けていました。それだからこそ、私は事務所施設の管理や、避難してきた人々の安全を守ることに集中し、現地職員がこの恐ろしい事態を乗り切るために必要なサポートを提供することに専念できたのです。

北方や東方に向かって発射されるロケット弾の音が聞こえると、対ミサイルシステムによる空中での迎撃、あるいはドローンやF16によるミサイル攻撃、もしくは海上や陸からの報復弾が避けようもなく返ってきました。2019年5月に衝突が発生した時、私はガザに着任してからわずか1週間後で、私にとっては初めて経験する衝突でしたが、様々な音が何か区別できるようになっていました。その時の音はほとんどが遠くから聞こえてくるものでした。

しかし今回のそれは、全く異なり、重なり合う様々な音は、全く区別がつかなかったのです。今回の爆撃は、国連機関の事務所や居住区、ほとんどの国際NGOが主に事務所を構えるリマール地区が現場となり、身近な場所で起こっていました。

イヴォンヌ・ヘラUNDP総裁特別代表に帯同し、ガザ地区の家屋や施設の被害状況を確認しに訪れる野口千歳UNDPガザ地域事務所長© UNDP/PAPP - Shareef Sarhan

夜、皆が地下室に降り寝静まり、それからだいぶ経った後に、たまに私は数時間だけ下に降りて横になることができました。建物の揺れや爆風の振動が地面から伝わってきて、多くの人が眠れずにいました。ある最悪の夜には、30分間に80回もの空爆があったかのようで、それはまるで降り注ぐ「恐怖の雨」のようでした。 ガザ地区のどこにも安全な場所はない、と誰もが確信していました。

そんな中、職員の一人に言われた言葉に胸が張り裂けそうになりました。小さな息子さんが彼女にしがみつきながら言ったそうです。「一緒にいて。そうすればその時がきたら一緒に死ねる。でないと世界で一人ぼっちになってしまう。」

パレスチナ人、特にガザの人々は何度でも立ち上がる逞しさを持ち、痛みや苦しみに耐える力が通常を遥かに超えていることを私は知っています。けれど、人間にはだれでも限界点があるのです。

バルコニーに座って、ピンクや黄色、オレンジの色が青い海に溶け込んでいく、息を呑むほど美しい夕日を眺めながら、国連のストレスカウンセラーが「この11日間で一番大変だったのはいつですか」と尋ねてきました。「職員とその家族の命が心配になったとき」と私は答えました。

はっきりと思い出す瞬間があります。避難の際にスタッフの警備責任者が無事に脱出できるかどうかわからなかったとき。襲撃が身近に迫ってきたと感じた職員が恐怖とパニックに陥り、彼女の子どもたちの叫び声を聞いたとき。そして、3人の子どもを連れてかろうじて家から逃げてきたばかりの職員の妻が、私の目を見ながら、二度とこんなことが起きませんように...と訴えていたときです。

今度こそ何かが変わらないといけません。このようなことを二度と起こしてはならないのです。